真田太平記(三)上田攻め

読 書
真田太平記 3

新潮文庫 池波正太郎 著

天正十三年。真田昌幸から沼田城明け渡しを拒否された家康は上田攻めを決定する。徳川軍は大久保忠世・鳥居忠元・平岩親吉らを先手大将に約七千騎。東からは北条軍が沼田城を目指して兵を進める。

沼田方面などにも兵を割いたために上田城には千二百兵でこれに立ち向かう。徳川軍は真田の兵力は二千程度知っていて上田城も築城間も無く簡単に落とせると思っていた。力攻めで攻撃を開始するが、突然源三郎信幸が五百の兵で襲ってきた。

渡河途中の徳川軍は多くの損害を被るが兵力の差は歴然で力押し上田城へ進める。上田城の昌幸は信幸が無事に帰還したのを確認して徳川軍を待ち受ける。

三の丸まで占拠した徳川軍は二の丸に襲いかかるが・・・この斜面に昌幸が仕組んだ仕掛けがあって大きな塀が崩れてきたのだ。それに上から大きな石や材木と弾丸・矢が徳川軍に襲い掛かり、狭いところに兵が固まる徳川軍はここでも大きな損害を被る。

そこへ三の丸に火をかけられて堪らずに退却をする徳川軍。ここで昌幸は上田城から打って出て退却する徳川軍に襲い掛かり大勝利となる。

惨敗した徳川軍は応援の兵をむけるが上田城へ7千の上杉軍入場したとの情報と思わぬ異変が発生。家康の重臣である石川数正が裏切り秀吉の元に逃げたのである。数正は徳川の軍事・政事に詳しく不利と家康が判断して兵を引き上げることになる。

この戦いで一躍真田昌幸の名前が日本中に知られることになった。

一方秀吉は大阪に城を築き、四国と紀伊に越中を平定し、太政大臣に「豊臣秀吉」なった。家康には妹を嫁がせ、母も人質に送り込みとうとう家康を傘下に抑え込む。天正十四年には九州島津を降伏させて九州も平定してしまった。

信幸は新たに沼田城城主となり、徳川重臣の本田平八郎忠勝の娘である稲姫と結婚。信繁は上杉景勝に人質として出仕していた。

この状況でも上洛しない北条は、秀吉の策で沼田に兵を向けてしまう。真田側は秀吉から無闇に戦いはするなと命令で北条軍の進撃を阻むことはできずに、名胡桃城が味方の裏切りもあって落城し真田家重臣で名胡桃城城代の鈴木主水は戦死し、その妻と長子小太郎は人質になり昌幸の妾のお徳は逃亡中になくなる。娘の消息も掴めなかった。

秀吉は、これを口実に北条へ攻め込み、有名な一夜城などで北条を降伏させてしまった。この間に伊達政宗は降伏し、秀吉は天下統一を完成する。

真田家は信州上田三万八千石、上州沼田に二万八千石と六万五千石の真田昌幸44歳大名に真田信幸25歳は沼田城城主に真田幸村(信繁)24歳は上杉から大阪城へ出仕となる。