双葉文庫 井原忠政 著
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の百四十万石を手にした家康はだったが、旧武田の国衆を束ねるのに苦労していた。家康は大久保忠世を東信州へ派遣する。もちろん忠世の寄騎として茂兵衛たちも同行する。
出立前に本田平八郎忠勝から伊賀越えで一緒で役に立たない花井将右衛門を茂兵衛の鉄砲隊の寄騎にと押しつけられる。次の鉄砲寄騎は鉄砲名人の小栗金吾と決めていたが、渋々引き受ける事になる。
梅雨の季節。浜松から240km東信州の小諸城へ苦労の末に着陣。忠世の命令で築城中の上田城へ視察に行く。昔からこの地は北の上杉、東の北条など境目にあり旧武田としては重要な地域。この地域を真田昌幸が治めている。
信玄亡き後に家康に従った真田昌幸は、表裏比輿之者(ヒョウリヒキョウノモノ)と呼ばれている曲者。今回も家康になんだかんだと言って築城費用を出させていた。
この上田城へ視察も兼ねて昌幸を訪ねて昌幸から歓待を受けて息子の源三郎(信幸)源二郎(信繁)も紹介される。築城中の上田城は攻めずらい守りに徹した城だった。
天正11年。秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼして織田家の所領を手にする。信長の次男の織田信雄これを不満で秀吉と戦う姿勢を見せて、家康に応援を求めてきた。
天正12年。伊勢の織田信雄が我慢できずに秀吉に対して兵を上げる。秀吉は織田家譜代衆の池田恒興を仲間に取り入れ犬山城を押さえ、一方家康は小牧山を押さえて対峙する。
偵察に出ていた茂兵衛は敵である森武蔵長可軍に遭遇。森軍は羽黒砦に陣を敷いていることが分かり、家康軍は夜襲をかけることになる。森軍は長可を先頭に激しく攻撃をかけて苦戦する家康軍。
茂兵衛は鉄砲名人の金吾に長可を狙わせて見事命中するが鎧に阻まれる。勢いが止まった森軍に深溝松平軍が横入れ攻撃を行い森軍は撤退した。この戦いで森軍の討死は300を超えて家康軍は大きな成果を得る。しかし、秀吉が大阪から3万大軍を率いて近くの楽田城へ本陣を置いたとの情報で家康軍も小牧城へ引き上げることになる。
秀吉軍は池田恒興、森長可 、堀秀政 、三好信吉(羽柴秀次)に三河を攻めること許可し出発させ家康側の岩崎城を短時間で攻め落とす。これに気付いた家康は遊撃すべく支隊を派遣と同時に本隊を小幡城へ、これに茂兵衛も鉄砲隊を率いて進軍する。
遊撃に向かわせた支隊が三好軍を撃破したが堀秀政に激しく抵抗されて敗走。家康から大久保忠世に堀軍を攻めるよう指示があるが堀軍は3千、忠世軍は茂兵衛たち鉄砲を部隊を含めても千人足らず。撃退ではなく追い払へと命令されたので、家康の馬印を借りることにする。馬印と家康本隊の旗印を掲げて、堀軍へ鉄砲を撃ちかけると堀軍は撤退して行った。
池田・森軍が家康軍が南下すること確認しこれに戦いを挑んできた。相変わらず森軍は長可を先頭に激しく攻め立ててくる。茂兵衛隊も猛攻を受けて苦戦。一人の若武者が茂兵衛に襲い掛かるが簡単に気を失わせる。
その時、森長可が鉄砲に打たのが見えた。金吾がやったのか・・それは井伊が率いる赤備旧武田騎馬隊だった。
終わってみれば秀吉軍は池田恒興・元助親子、森武蔵長可と兵9千人の内3千人兵士が戦死。家康軍の大勝利に終わった。
次巻は上田合戦仁義。6月16日発売らしい。