双葉文庫 井原忠政 著
三河一向一揆の戦いで野場城に籠城した茂兵衛と丑松だったが、乙部八兵衛の裏切りで野場は陥落。夏目家当主の夏目次郎左衛門は投降する。
家康は内戦を終わらせて、次の目標である東へ侵攻するために直轄軍旗本の拡充を図る。夏目次郎左衛門の推薦で、茂兵衛に弟の丑松と野場城籠城で一緒に戦った辰蔵の三人は、小物から家康の足軽として採用されることになった。
当時は足軽でも一応士分であるために苗字が必要。夏目次郎左衛門から出身である村の名前で「植田茂兵衛・丑松」と命名される。辰蔵は同じく村の名前で「木戸辰蔵」となった。
今風に言えば、三河地域の筆頭株主は「松平家康」で同じような株主に気を遣いながら会社運営をしているので、松平家の資本(兵力)増強で採用された訳だ。これでも地域の大会社で末端であるが正社員として採用されたのだ。
茂兵衛の直属の上司は家康の近習である本田平八郎忠勝。茂兵衛は指旗となり勇敢な忠勝と危険な前線で働く。
それから5年の歳月が流れた。家康は三河一国をほぼ平定し、東の遠江へと領土を広げるために曳馬城攻撃を開始する。忠勝軍の活躍で曳馬城を攻略。この戦いの最中に茂兵衛はある女性を助ける事になる。
曳馬城の次は、今川氏真が籠る掛川城。ここでも茂兵衛は殊勲を上げるが、背後から銃弾を受けて大怪我を負い、この時に曳馬城で助けた女性「綾女」の世話になる。二十二歳の茂兵衛は戦ばかりでなく、恋も芽生える歳になっていた。
同盟軍である織田信長から家康に、裏切り者の浅井長政との戦いに参戦するよう要請があり、忠勝軍は三河から遠い近江姉川へ出陣。
これが戦国史上名高い、朝倉・浅井家対織田・徳川軍の「姉川の戦い」である。朝倉軍の猛攻で苦戦をする徳川軍だったが、忠勝軍の活躍もあり戦況を挽回。勢いついた織田軍も浅井軍を追いやりほぼ勝敗が着いた頃。
背後からドカン・・と弾が茂兵衛の耳をかすめる。打ったのは忠勝軍の士分である横山左馬之助であった。この左馬之助の父親である横山大善軍兵衛を三河一向一揆の時に、野場城で茂兵衛は打ち倒ししたのである。
掛川城での背後からの銃弾もこの左馬之助の仕業である。足軽以下の茂兵衛に父を打たれ恨み骨髄。チャンスがあれば仇を打つつもりだったらしい。
しかし、百戦錬磨とまでは行かないが、前線で死線を何回も乗り越えてきた茂兵衛は、逆に左馬之助をねじ伏せ、一差しで返り討ちできる体制に入った。そして、茂兵衛は「10年後茂兵衛は千石取りになれば父親も名誉だろう」と左馬之助に投げかける。
その時、忠勝が割り込み仲裁をする。忠勝も左馬之助が茂兵衛を狙っていることは、薄々知っていたのだ。10年後茂兵衛が千石取りになっていなければ、忠勝が茂兵衛の首を横山軍兵衛の墓前へ供える誓うのあった。
これで茂兵衛は大きな目標が定まり、本腰を入れて出世を目指すことになる。