4月28日。40年ほど前に上京して住んでいた文京区へ出かけることにする。4畳半トイレ・台所共同のアパートは文京区千駄木にあった。当時は千駄木を中心に白山・根津・谷中に日暮里・西日暮里・田端などで飲み食いをしていた。
最近は「谷根千」と呼ばれて東京の観光地になっている。自宅から大宮へ大宮から京浜東北で西日暮里で地下鉄に乗り根津に到着。地上に上がると観光客で溢れていて驚く。駅近くの交差点向かいで行列を発見。後で調べるとお蕎麦屋さんであった。
昔飲んでいた店は跡形も無くなっているが、基本的な街並みは昔のままでビルが多くなった程度だった。当時根津にはよく来たが、夜だったために根津神社には行ったことはなかった。観光客の行く方向へ歩くと神社が見えてきた。
大きな鳥居の先に右カーブで本殿が見える。表参道と本殿が一直線でない神社はよくあるがここもそうらしい。鳥居をくぐると左手に色鮮やかなツツジが咲く斜面に多くの観光客がツツジを見ている。
楼門には門守神。右側が神様は水戸光圀をモデルに造られたそうだ。楼門をくぐると右側に神楽殿、左側に手水舎がありお清めをして唐門。ここからでも参拝客が並んでいて凄い人気だ。厄除け・商売繁盛などにご利益があるらしい。
唐門をくぐって本殿でお参りを済ませる。本殿の造りは精巧ではない様に見えるがなんとなく歴史を感じる。立派な灯籠と狛犬を写真に収めてツツジの方へ向かう。しかし、あまりにも人が多いので、乙女稲荷へ向かう。
西門を抜けて石段を上がると乙女稲荷千本鳥居の中間地点に到着。左側に6代将軍徳川家宣の胞衣塚がある。これは5代将軍徳川綱吉が家宣を養子に迎えたことで千駄木から現在の地に根津神社を移したそうだ。ここは元々家宣の実家であった甲州藩の下屋敷で家宣が生まれた地に間違いはない。
千本鳥居は一方通行ではなく、前からも観光客がやってくるので通り辛かった千本鳥居を抜けるとやっと乙女稲荷に到着してお参りする。次に駒込稲荷を目指す。この途中に庚申塔がある。根津や千駄木・駒込など街道にあった庚申塔が区画整理や道路の拡張でここへ集められたようだ。
庚申塚の先にちょっと質素な感じがする駒込稲荷があった。この門前に何やら不思議な狛犬?か岩に・・・狐の像が対ではなく群れとなって刻まれていたのには驚いた。
根津神社を堪能して裏門を出ると、不忍通りまで坂を根津裏門坂と出ていた。ご存じの通り東京はやたら坂が多くて、それぞれ名前が付いているのだ。40年前に住んでいたアパート目指して千駄木方面へ記憶を辿りながら進ことにする。
不忍通りに沿って裏道があったのを思い出して歩いていると知らない道に入り込んでしまいマップで修正して進む。墨田区等と違って下町とは言えないような雰囲気がある街だが、家が密集し車が一台通れる道を進むと、5分も歩く内にコインランドリーが2軒もあった。
昔ながらの八百屋兼雑貨店にコロッケなど揚げ物を売っている精肉店があり、裏道なのでコンビニはもちろんないが、埼玉と違って車社会でない東京ではまだまだこのようなお店が活躍していると感じる。
見覚えのある風景が見えて来た。団子坂!懐かしい!黄色いビルの保育園は古くなったものの健在だし、赤煉瓦のマンションも当時とほぼ変わらない。交差点のそばにあった飲み屋はもちろん無くなっていた。
迷路のような千駄木の街中に入り込み、記憶を頼りに進むが・・行ったり来たり・・住宅が密集していて平日にウロウロと不審者にまちがれそうだ。やっと見覚えがある交差点に・・手前の角が銭湯であったすでに無く、この向かいにあったコインランドリーは小さな公園になっていた。銭湯反対がは八百屋だったが、自動販売機が並ぶ雑貨店になったいた。
ここを右折してアパート前に立つ。アパートは無くなっていたが庭はそのままで大家さんの家が立っていた。近くにあった床屋やなくなっていて、医院は歯医者に変わっていた。白山へ向かう通りのクリーニング店は大きなマンションに変わっており、森鴎外記念館は立派な建物に変わっていた。
千駄木からから逆コースで帰宅した。