真田太平記 (六)家康東下

読 書
真田太平記 6

慶長四年年末。石田三成が佐和山へ帰った後に、家康は大名に領地へ帰っても良いと触れを出す。表向きは、朝鮮の役で長い間領地を離れているので領国経営に注力するためだった。

その後、前田藩の前田利長に謀反の兆しありと難癖をつけて家康は攻めると言い出す。前田利長は家康に詫びることになる。このように豊臣有力大名の静粛して行くのであった。一方真田家も昌幸と幸村は上田城へ、信幸は沼田へ帰着していた。

会津に帰着した上杉景勝が会津で防備を固めて武器を集めていると情報が入る。家康から再三このことを説明するよう景勝に要請するが無視されてしまう。家康は豊臣政権に対して謀反の兆しありとの名目で上杉景勝討伐の全国の大名へ命を出し、伏見城を鳥居元忠に二千の兵を預けて会津へ向かうことのなった。

真田昌幸・幸村軍は家康から招集指令受け取り出陣の準備をしていた。石田三成は上杉討伐のため家康が東下ことを知って、戦の準備を進める。盟友で幸村の岳父である大谷吉継は三成を止めようと説得するが三成の考えは変わらず、吉継も三成に味方すること決定した。

家康は江戸を出発。信幸は家康軍先鋒の徳川秀忠軍に従い下野宇都宮まだ来ていた。昌幸・幸村がこれも下野佐野で家康本隊と合流するために待機していた。そこへ三成から家康反抗の兵を挙げたと知らせが届く。昌幸は信幸に連絡し佐野まで単独で戻って来るよう指示を出した。

真田昌幸・信幸・幸村の三人で話し合いが行われ、信幸は家康に、昌幸・幸村は三成に就くこと決定した。昌幸・幸村は上田城へ引き上げて戦準備を信幸は秀忠軍へ戻っていった。

有名な話だが、佐野からの上田城へ帰る途中に昌幸は沼田城へ立ち寄る。理由は「孫の顔を見る」ためだった。しかし、留守を守る信幸の妻「小松殿」が昌幸の入城を断り門前払いをしたのだ。

昌幸が三成に味方すると聞いた真田草の者軍団の壺谷又五郎は、草の者を総動員して情報活動と決戦前に裏組織の破壊活を開始する。お江も佐助も忙しくなって来た。

三成挙兵の情報で家康が反転。福島正則達が先鋒で美濃・尾張方面で開戦し勝利を治める。いよいよ関ヶ原だ。