伊賀越仁義 三河雑兵心得 七

読 書
伊賀越仁義

双葉文庫 井原忠政 著

本田平八郎忠勝と再会した茂兵衛は、先行していた家康本隊と四条畷の飯盛山山麓で行き合う。穴山梅雪たちも同行していた。

家康から部下たちに本日未明に信長が本能寺で亡くなったことと、謀反人は明智光秀であったことが発表された。家康は、京へ戻って光秀と一戦交えると伝えるが、梅雪の部下を含めて50人足らずでは戦いにならないと部下たちに宥められる。

三河へ戻る道は甲賀、伊賀の里を経て伊勢に抜けることになる。しかし、昨年織田軍が伊賀の里を無慈悲に攻めて根切りしているので危険を覚悟する。そこで梅雪が殿軍を務めると名乗りを上げる。もちろん、茂兵衛も梅雪隊の寄旗として同行とするつもりだったが梅雪はこれを断ったのだ。

梅雪隊を殿軍に進む家康隊は落武者狩り気配を感じるが、これは梅雪隊がいつの間にか家康達から離れて、京へ道を変えために落武者狩りたちが梅雪隊に襲おうとしていたのだ。

平八郎と茂兵衛は梅雪隊の様子を見るために戻るが、すでに梅雪隊は襲われて全滅していた。たった一人梅雪の家老である有泉大学助が右足を負傷して生き残っていたのだ。これを茂兵衛は助け出す。

家康と共に無事に三河へ生還した茂兵衛。家康は明智討伐に軍を進めるものの秀吉が明智を討ち取ったの報で空白地帯となっている信濃・甲斐国へ軍を進めることになった。

今度の仕事は、旧武田領内に穴山衆と善四郎の弓隊も合流して徳川軍の拠点になる城砦を構築だ。しかし、空白地帯の甲斐を狙う北条軍が迫っている情報で、境界にある中牧城を押さえて北条軍を阻止することになった。

茂兵衛隊の活躍で中牧城を制圧し北条軍は引き上げる。一方織田家では、清洲会議が開催されていて家康の信濃・甲斐領を獲得を承認されていた。

家康はこれで三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の百四十万石を有することになる。東の北条とは家康の次女督姫を北条五代目当主氏直の正室に輿入れと上野の真田領沼田を引き渡すことで和睦。西の織田は、信長の死後に家中が騒がしく、秀吉も家康に手が出せない状況だった。

茂兵衛は久しぶりに浜松に帰着し自宅で休んでいたところ義理の弟である辰蔵に呼ばれる。辰蔵の家に行くと男の乳児がいて茂兵衛の子供であると伝えられる。江尻城であった綾女が産み、産後に肥立ちが悪く亡くなったようだ。この子は、辰蔵夫婦が育てることになった。

秀吉が柴田勝家を滅ぼして旧織田を完全に自分の物にする。秀吉と家康の戦いが始まろうとしていた。

植田家
当主:植田茂兵衛36歳 役職:鉄砲大将(課長)給与:二百五十貫(約500石)
妻:寿美 子供:綾乃(長女)・松之助(長男)(母は綾女。辰蔵夫婦に預ける) 兄弟:タキ(妹)、丑松(弟・本田平八郎軍馬廻り衆) 親戚:松平善四郎(寿美の弟・弓大将)木戸辰蔵(妹タキの夫)
植田家奉公人:家宰の鎌田吉次・三十郎・富士之介

植田茂兵衛隊 家康の直属部隊である旗本先手役。
鉄砲足軽50名、鉄砲足軽護衛の槍足軽40名、小頭9名、寄旗3旗:筆頭は大久保彦左衛門、茂兵衛を親の仇と狙う横山左馬之助、妹の夫である木戸辰蔵。