砦番仁義 三河雑兵心得 五

読 書
砦番仁義

双葉文庫 井原忠政 著

茂兵衛は松平善四郎が率いる旗本先手弓組(弓足軽三十人、槍足軽二十人)の筆頭寄騎。階級は善四郎が足軽大将・物頭(課長)で茂兵衛は筆頭寄騎で物頭級(課長補佐?係長?)

没落したといっても家康の親戚筋である松平善四郎の姉「寿美」を嫁に迎えて浜松城に屋敷を構えている。弟の植田丑松は、夜目・遠目を買われて本田平八郎忠勝の部下となり近々結婚する予定だ。戦友木戸辰蔵は茂兵衛の槍足軽頭となり茂兵衛の妹「タキ」と婚約。茂兵衛には三人の兄弟ができていた。

奉公人は故郷の五郎右衛門の推薦で吉次・三十郎・富士之介の三人。辰蔵と同役の槍足軽頭の服部宗助。茂兵衛の周りには職業軍人として経験豊富な槍足軽と優秀な弓組。彼等は茂兵衛と絶大なる信頼で結ばれていた。

長篠の戦いから数日後、家康は遠江の二俣城へ兵を進める。茂兵衛達は忠勝 ・榊原軍と共に北遠江の光明城攻略作戦に参戦 。一日で光明城を落とし、この時城主の松井宗恒は重傷を負いながら抜け道を使って逃走。茂兵衛は追いつくが宗恒と子供の橋之助を助けて逃してしまう。物語の未来で再会すると思われる。

二俣城攻略は膠着状態で家康はイライラしていた。勝頼には完勝したが、これも織田信長の加勢での勝利。信長が納得するような戦果が欲しいのと、この遠江は元々今川領でグズグズしていると一揆や蜂起となる。それに加えて岡崎城を守る息子の信康率いる西三河衆と前線で戦う浜松城の東三河衆との軋轢も激しくなっていた。とにかく、これらの問題は早期の遠江攻略にかかっている。

そんなある日に善四郎と茂兵衛は家康に呼ばれる。要件は善四郎に信康の旗本への配置換えだった。元々、善四郎は信康の小姓であったが歳か近いこともあり、よくぶつかり合ったために忠勝が自軍に引き抜いたのであった。

信康には恨みはないが、前線で武士として戦いたい善四郎は配置換えを断る。家康は断るなら、信康を支える松平真乗(家康の従兄で西三河衆重鎮)の妹と結婚するよう命令した。

家康は二俣城を囲んだまま駿河と東遠江境にある諏訪原城を攻略。次に高天神城への補給路を絶つ命令を茂兵衛に下した。茂兵衛は奥深い森へ40名の足軽を率いて一人の部下も失わずに何度か補給部隊を撃退する。

そんなある日に怪しい商人を発見。一人は富士之介が殺してしまい、もう一人は自害した。この自害した商人は足軽頭の服部宗介の弟であった。彼らは家康の妻である「瀬名姫」の手紙を持っていた。

茂兵衛は任務を終了して帰還。補給路妨害の功績で、家康から兜に金色に塗った定紋を前立に付けることが許される。

天正三年(1575年)二俣城が降伏。二俣城で大久保忠寄騎として茂兵衛は鉄砲足軽三十と足軽三十に小頭六人を率いる足軽大将になっていた。その後、大久保忠世から武田領との境目である北遠江の高根城を任されるが、忠世の弟である大久保平助(忠教・のちの大久保彦左衛門)の面倒を見ることになった。

これ以降は信康の切腹まで描かれているが省くことにする。

姉川の戦いは1570年。横山左馬之助との約束から5年が経って足軽大将で500石〜800石程度とまで来たが、あと5年で1000石・・この物語はどこまで行くのか・・?