弓組寄騎仁義 三河雑兵心得 四

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弓組寄騎仁義

三方ケ原の敗戦から数ヶ月。先手弓組を率いる善四郎の寄騎の茂兵衛は、撤退戦の活躍もあり馬乗り、すなわち騎乗の武士となった

騎乗の武士で歳も二十七歳。善四郎から姉の寿美(すみ)を紹介される。綾女のことが忘れられないが、すでに綾女は人の妻となっていた。

一方信玄は三方ヶ原の戦いに勝利したものの、西上途中の三河国内から撤退して行った。信玄が亡くなったと未確認情報が入っている。

武田と徳川の境界近くの長篠城へ家康は進軍。善四郎隊は弓組三十人に茂兵衛は足軽二十人を率いている。茂兵衛を補佐するのは足軽小頭の戦友木戸辰蔵と新たに加わった服部宗助。小競り合いはあったが調略で長篠城はあっさり開城となり、家康は奥平信昌に長篠城を守らせる。

束の間の休暇を利用して故郷の植田村へ。母が後妻に入った豪農の五郎右衛門からは、身の回りを世話する奉公人を世話してもらったりして恩がある。ここで戦友辰蔵に妹のタキを紹介し、新たに七之助を雇うことにした。

武田勝頼が東遠江へ侵攻。高天神城を落として三河へも侵攻し、綾女が住む曳馬宿も武田軍に蹂躙され綾女を見失う。

武田軍と小競り合いは続いていたが、善四郎と茂兵衛は奥三河の野田城奪還作戦に参戦。武田軍は野田城を放棄していたため、そのまま野田城へ駐屯することになった。

翌年、信長の隙を突いて武田勝頼が奥三河の長篠城を囲む。野田城から偵察に出ていた茂兵衛隊は、長篠城から抜け出してきた伝令の鳥居強右衛門と遭遇。茂兵衛は強右衛門を連れて岡崎城で家康に合わせる。強右衛門は家康に長篠城の窮地を伝えて応援を仰ぐ。

信長が応援に岡崎へ到着。しかし、長篠城が落ちると帰ってしまうので、家康はどうしても長篠城に頑張って貰いたい。ここで茂兵衛に長篠城へ応援に行くこと伝えるよう指示するのであった。

茂兵衛と善四郎は矢文で、強右衛門は単独で長篠城へ帰って知らせることになるが、強右衛門は武田軍に捕まってしまった。

武田軍は強右衛門を長篠城の近くへ連れて行き、応援は来ないことを伝えさせようとしたが、強右衛門は、応援は必ず来ると大声で伝えた後に、武田軍に殺されてしまった。

織田・徳川軍は、武田勝頼と戦いを決定して設楽原に柵を築き出す。茂兵衛たちは、酒井忠次に率いられて、長篠城包囲の要である鳶ヶ巣山砦を攻撃して長篠城の救援に成功する。これにより武田軍は、退路を脅かされ設楽原で両軍が激突。これが「長篠の戦い」である。

織田・徳川軍三万四千。武田軍一万二千。戦国最強の武田騎馬軍が真っ向勝負で襲いかかるが、柵と鉄砲で騎馬軍団を跳ね返し、それでも武田騎馬軍団は突撃を繰り返すだけだった。長篠城方面から酒井隊と奥平率いる長篠軍が、武田軍本陣を攻撃すると勝頼は退却を始める。織田・徳川軍の大勝利で終わる。

三方ケ原の敗戦から長篠の戦いまで、茂兵衛は善四郎の弓組寄騎として共に戦い、足軽達も大きく成長していた。