足軽小頭仁義 三河雑兵心得 参

読 書
足軽小頭仁義

双葉文庫 井原忠政 著

姉川の戦いを終えて三河に凱旋した家康は、曳馬場を浜松城と名前を改めて三河の東側へ本拠地を置く。これで茂兵衛たちの直轄旗本先手役も浜松に駐屯することになった。

姉川の戦いで勝利したことで、茂兵衛は正式に徒侍(今風に言えば主任?リーダー?)に出世。旗本先手役の足軽小頭となり、10人の足軽を率いいることになる。木戸辰蔵はこの筆頭足軽として茂兵衛を補佐し、同じく弟の丑松もこの組の一員だ。

茂兵衛二十四歳。狭いながら屋敷もいただき、身の回りなどの世話をする小物も雇わなくてはならない。妻も・・。そこで綾女にプロポーズするが・・あっさり断られてしまった。

稲の刈り入れが終わった秋になり宿敵武田軍が攻めてきた。家康も出陣。家康の命令で忠勝隊は威力偵察に・・ここで風林火山の幟を発見した忠勝軍は、信玄目指して攻撃をするものの、あっけなく敗退。

勢いある武田軍は、徳川本体を目指し猛攻撃をかけてきた。ここで忠勝軍は家康を守るために一言坂で反撃に出るが、多くの犠牲を出して浜松城へどうにか帰還する。

この戦いで部下の足軽を数名亡くした茂兵衛は、翌日忠勝から松平善四郎康安を紹介される。明日から初陣で二俣城へ入る善四郎の寄騎をするように懇願され受けることになった。

善四郎の松平家はもちろん家康の親戚であるが、三河一向一揆で没落して家の子郎党はいない。忠勝は若い頃に善四郎の父に命を助けられた恩あるため、茂兵衛の腕を見込んで善四郎につけた訳だ。

善四郎は十八歳。生まれつき体は小さくて非力のため弓が得意であった。この善四郎と茂兵衛たちは、二股城へ入ってまもなく、武田勢が攻めて来た。善戦するも水の手を切られて降伏開城となった。

数日後、無事に浜松城へ戻った善四郎と茂兵衛たちは、改めて旗本先手役である忠勝隊に組み込まれる。いよいよ信玄が攻めて来た。

信玄は浜松城を無視して西を目指す情報が入る。西には家康の息子である信康が守る岡崎城があるのと、ここのところ負けが続き、国内運営に支障も出て来ていた。ここで信玄軍への攻撃を家康は決意した。

勢い混んで信玄軍に向かった家康軍は、まんまと信玄軍の罠にはめられてしまう。これが「三方ヶ原の合戦」茂兵衛たちも大苦戦。

善四郎を守りながらの撤退時に、浜松城から応援に来た旧主であり恩人の夏目次郎左衛門と会うが、夏目は家康の兜を被り家康の代わりに討ち死にしてしまう。

命からがら浜松城へ帰った茂兵衛は、夏目次郎左衛門の遺品を探しに戦場へ戻る。そこで茂兵衛は、負傷した綾女の夫である浅羽小三郎を助けて送り届ける。

戦い続きの茂兵衛だが、一戦毎に強く逞しくなり指揮能力もスキルアップしている。千石取りにはまだまだ遠い。