私の履歴書

個人
履歴

誕生

昭和30年12月1日大阪市生野区林寺の自宅で次男として誕生。父は大正15年5月4日生まれ。母は昭和6年11月22日生まれ。兄は昭和29年、弟は昭和38年生まれ。

父は大叔父の会社で配達兼営業でバイクに乗っていた。母とは見合い結婚と聞いている。夫婦仲は良く、喧嘩していた記憶は一度だけで、どこかえへ家族で出掛ける前に、母が泣いてい行かなかったことだけだ。

母は口うるさかった(88歳になってもうるさい)父は極めて温厚な人だった。(2018年12月に92歳で亡くなった)

父が70歳になった頃に自伝を送ってきた。そこに、母との結婚の前に結婚していて女の子供がいたとカミングアウト。この話には裏があり、前の奥さんは随分前に亡くなったが、父は70歳になり、この女の子に会いたかったのだ。これを母に相談したら、母が逆上して3人の息子の嫁たちに連絡したらしい。

ミキちゃんは、このことは母から聞いて知っていて、私には話しなかったそうだ。財産もないし、別に会うだけならと思うが、母は許せなかったのだろう。結局は九州に住む、我々の姉には会いに行かなかった。

さて、私が生まれた生野区は大阪市内でもガラが悪く、高校入学で「どこから来たのと」聞かれて「生野」と言うだけで皆んなビビっていた。

確かに上品ではないが、そんなに怖いことはなかった。・・・でも・・中学・高校時代はこの地区の恐ろしさは身に染みた。これは中学・高校時代の履歴を見てください。

それでは当時の自宅を紹介しよう。
自宅は船の様に細長く間口は一間半(3m弱)。玄関を入って土間、土間の左側半分がコンクリートの台所兼洗い場。その横の板の間に食器棚とちゃぶ台があり、そこで食事をしていた記憶がある。

次の6畳には掘り炬燵、次の4畳半には押入れ、次の6畳には立派な黒檀の和ダンスがあった。その先に廊下?あり、左側がトイレで庭。その先の離れに4畳半の部屋があった。

昔の家

ご近所の紹介。
右隣だけ間口二間で我が家も含み4軒長屋。この様な長屋が続いている。

右隣は子供いなかったため記憶はない。左隣はクリーニング屋、その隣は髭りそりに使うブラシを作っていた。高校一年生の時にこの3軒共同で2階を増築した。

左隣は頭のハゲたおっちゃんと見ただけで素人でない目つきのキツイ若いおばちゃん。子供は私より学年は上だが同い年の女の子。確か「アッコちゃん」その弟が何故か「僕ちゃん」本名は「タツヒコ」。

ブラシを作る家は子沢山で、大きいお兄さん、お姉さんが二人、兄と同い年のお兄ちゃん、私より一つ下の大嫌いな女な子(名前も忘れた)。路地があり、その先が母子家庭の町工場に2歳上のお姉ちゃんともっと上のお兄ちゃん。

その数件先に家族ぐるみでお世話になったお家に5歳ほど上の「あっちゃん」その上にお姉さん、お兄さんがいた。この家は不思議で、一軒に2家族住んでいた。「あっちゃん」の家族が間借りしていたと思う。

向いは宝飾品(指輪)の箱?カッパッと空く、あの箱を作っていた。この家に一つ上だが小学校も中学も地元学校には通わなかったため、兄とは全く付き合いがなかった男の子。その下は私より3歳下の女の子。

左斜め前に指ぬきを作る町工場で近所一のお金持ち。毎年鏡開きにぜんざい(関西風)を作り、近所の子供達に振る舞っていた。ここに4歳上のチビのお調子者お兄ちゃん、その上に綺麗なお姉さん。

指ぬき工場の右隣に、一歳上の糸子ちゃん(何故か父親がなくなりそれからケイコちゃんに変わった)その上にお兄さん。

我が家から約30mほど離れた家に、私が追いかけていた2歳上の男の子ヒロミちゃん、その上の信ちゃん兄さん。その先の奥まった家に1歳と3歳下の男の子が二人いた。

近所図

上記の近所図は「遊び場」から先の10軒を省いた略図である。40軒強の家が並んでいた。

幼年期

自転車屋に布団屋には、幼稚園からの同級生。布団屋さんは女の子でおとなしい子だった。自転車屋の左隣のパーマ屋に幼稚園へ一緒に通っていた男の子がいたらしい。全く記憶にないが、高校で劇的な再開をする。

風呂屋の裏に路地があり、この路地を通って焼きそばが美味しい裏のお好み屋へ通っていた。ここに家があり、家の前に薄板の箱に貝のボタンと思われる物を綺麗に並べて何やら薬品に漬けていた。不思議な光景であったが、この貝ボタンを作る家に兄と同い歳の男の子がいた。

小学校へ行くまでは、運河に面した角の駄菓子屋でかき氷やラムネ以外のコーラもどきの炭酸飲料たる物を初めて飲んだ店。裏の駄菓子屋は、「おかき・せんべい」が美味しかった。

団塊世代末期の幼児期の私は、兄達が幼稚園や小学校にいっている間は、同い年の男の子がいないので、大人と遊んでいた。右斜め向いに相撲取りの様に大きなお爺さんと同じような体格をしたお兄さん二人が、土間で真鍮の粉の様な物をスコップかき回していた。

それを見るのが楽しみであるのと、この家には三輪自動車のミゼットがあり、それに乗せてもらうのが楽しみであった。ハンドルは丸くなくてバイクの様になっていて、ドアはなかったと思う。相撲取り風兄さんの腕に巻かれながらの配達であった。

夏のある日、母が着物に着替えていた。これが不思議で部品を次々に巻き抜けているのを今でも覚えている。手土産を抱えて日傘をさし、ずいぶん歩いて着いた先は、大きな門がある庭付きの家だった。出て来たのは初老の夫人と何か話をしていた。

帰りに母に聞くと、地主さんと言っていた。我が家だけでなく、ご近所も家は持ち家だが土地は借り物だと初めて知った。でも、いつの間にか土地も購入したようだ。

自宅前の道は、土と砂利だった。ある日に新たな砂利の上にコールタール物を厚く撒き、その上に砂をかけて舗装していた。でも、乾かないうちにその上を歩く人がいて、靴にベッタリと付いていた姿はハッキリ覚えている。その後、側溝の工事があり、しっかりした舗装になったのは小学生低学年だったと思う。

「ロバのパン」馬が馬車を引きパンを売りにくる。栗毛の大きな馬が自宅前を通ると必ず玄関で見ていた。パンは欲しくなかったが馬を見たかったと思う。また、音楽が流しながらやって来た。歌詞は忘れたが、なんとなく頭の中に残っている。

団塊の世代末期の私は、一番年下であるため、近所のお兄さん達から可愛がられた。でも、皆んなで繁華街(天王寺界隈と思う)へ行く時は連れてもらえなかった。

幼稚園

幼稚園は、すみれ幼稚園(今でもある)あやめ組で樋口先生を強烈に覚えている。宝塚の様にスラット背が高く、ショートカット、美人でなかったと思うが格好よかった。容姿の通り性格のキツくよく叱られたと思う。

でも、学芸会?では主役の「冬の王様」役に抜擢された。今でも「私は冬の王様じゃ、私は冬の王様じゃ」と2回言って太陽にやっつけられた記憶はある。

卒園アルバムの最終ページに樋口先生の手書きのコメントがあった「いつもメソメソ泣く・・」と始まるコメントは息子にも、孫にも見せられない。同卒園の友人にコメントあったかと聞くと、誰も無いと言っていたので、私だけかもしれない。この年になっても不思議だ。俺に惚れるなよ。

小学校時代

小学校は生野南小学校。生野区の最南端で川の向こう側には、ライオンの工場とその向いに東部市場市場が建設中であったと思う。

小学一年生。担任は前田先生。背が高くガッチリした逆三角形で肌色が薄黒く短髪。多分、学徒出陣で陸軍だったと思われる。これ以外思い出はない。

小学一年生の思い出は、一年上の兄は少し斜視で上級生達に虐められているのを見て、我慢が出来ずに上級生向かって行ったら、上級生達が驚いて私を肩車して運動場を走り回ってくれた。これで一躍人気者になる。

小学2年生の担任はシワクチャの女の先生。何かしら怒られた。2学期の学級委員選挙で私が選ばれた後は悲惨で、なぜ貴方が選ばれるのとよく言われた。こっちも困っていると言いたがったが、学級委員のバッチを胸につけていると、気持ち良かった。

小学3年生の担任は神経質そうな男の先生。短気で何かしらあると教室の後ろに関係者を立たせる。今じゃ考えられないが、男も女も関係なく平手で叩くのある。何人か叩くと急に胃の当たりを押さえ出して蹲るのである。

絶対、家庭か学校でストレスをためていたのであろう。この先生は、4年の途中からお休みになりいつの間にかいなくなった。

小学校低学年時代は、活発に近所のお兄ちゃん達と遊ぶようになる。コマ回し、ビー玉、缶蹴り、草野球・バッタ捕りなど。

冬になると近所の子供達が集まり、こまを手のひらに乗せて電柱間を渡り歩く、鬼は同じく手にコマを乗せて電柱間で相手にタッチすると鬼が入れ替わるルールだった。私は、手に乗せることができないため、ブリキのお菓子の蓋内にコマを回して蓋を持って移動していた。

ビー玉は、色々なルールはあったが、地面に穴を掘ってその穴に沿って鍵状に線を引く。対戦相手と同じビー玉を出し合ってジャンケン。勝った方が先行で遠くから全てのビー玉を右手の平に持ち穴に入れると・・バラバラ・・と穴に入るのと穴以外に散らばる。

穴以外に散らばったビー玉を後行が指定する。先行から距離のあるビー玉、ビー玉同士が接近しているビー玉など・・指定したビー玉以外に当ったたりすると選手交代。見事命中するとビー玉全部をいただくルールだ。

これが小学校中で流行っていたのだろう。歩いて10分ほどの大きな広場で100人以上の子供達が集まり勝負していたのには驚いた。

缶蹴りは夏の夜に行われる。誰かが持ってきた缶カラを置きジャンケン。負けた子供が鬼になり、誰かが缶を蹴って鬼が取りに行っている間に鬼以外は隠れるのである。

鬼は子供を見つけると名前を言って缶を踏む、探している間に缶を蹴られると、再試合となり・・小さな私は延々と鬼を続けて最後は泣いて終了となるのであった。

2年生か3年生の時に隠れていると鬼が近づいて来たので、塀を乗り越えて庭へ飛び降りると、洗濯紐が張ってあり、そこに首を引っ掛けて後ろ向きに倒れると、鉢植えにしていた火鉢の頭をぶっつけて5針も縫う大怪我をした。この傷は今でも残っている。

草野球?ソフトボールやテニスの軟式球を下から投げて遊ぶことを下投げ。本物の軟球使うのが上投げと言っていた。家の前の道でも下投げで、道路が細いためにバッタから投手・外野が縦一列に並ぶわけだ。もちろん打球は屋根の上に飛んで行く場合があり、よくボールを失くしてしまうのである。

近所の子供達が集まり遠征。歩いて30分ほどのところに建設中の東部市場があり、この横側は一面野原になっていた。昔畑か田んぼの残りかババタンコ(肥溜め)があちらこちらにあった。不法投棄は当たり前の時代、お宝に巡り会うこともあった。

平な場所があり、ここでソフトボールで遊ぶのであった。町内グループで移動することが多く、ここで川向こうの畳屋3兄弟グループとよく対戦した。このグループは、いつもソフトボールでなく本物の軟球で試合を挑んでくる。

上投げが怖いのと、ソフトボールと比べて打球の遠くまで飛ぶために、外野を守る私の頭の上を超えて行くことが多く、勝てなかった記憶がある。

バッタ捕りにカエル捕り。この野原にバッタが多く夏になると、虫取り網(竹棒の先に網)と虫カゴを持って出かける。野原をバッタを追いかけて走り回るのである。

でも、ババタンコには要注意。兄はバッタ捕りでババタンコへ落ちてしまった。何故かその後「○○あき」だったのが「○○みつ」と漢字は同じだが名前の呼び方が変わってしまった。人生リセットか?

カエル捕りも同じようだったが家に持ち帰るとよく叱られた。

近所の悪ガキが集まって怪獣映画を見に行くことになり私も着いて行くことを許される。自宅から歩い30分で桑津の映画館へ到着。でも、怪獣映画は終了していてやっていたのは「こんにちは赤ちゃん」だった。これが記憶にある人生初映画であった。

これより以前の映画記憶は、母と二人だったと思うが商店街に映画館があり、時代劇を観た記憶が微かにある。大混雑で立って観ていたがカラーだったかも・・

当時自宅から歩いていける映画館は4館あった。怪獣映画を観に行った桑津。母と行った商店街の映画館は、小学校へ上がる前にスーパーマーケットになった。このスーパーに自動ドア設置されいて、それは横に動くのではなくて、前に開くドアだった。開くたびにドカンドカンと大きな音をたたていた。

疎開道路に洋画専門の映画館「パーク劇場」ここは中学時代にアルバイトでお世話になった。次に中学時代の友人「コロッケ君」の肉屋さん前映画館。ここは中学時代はポルノ専門になった。

これらは高校時代に全て無くなってしまった。もちろん、テレビの普及が原因と思う。

我が家の初テレビは、チャンネルはボタン式で画面には大きなレンズの様なカバーをつけていた。マンガ「ポパイ」を観た後に「週刊新潮は明日発売です」このCMを聞いて寝た覚えがある。

カラーテレビを初めて観たのは、叔母さんの家であまりにも綺麗ので驚いた。

高度成長期だったのだろう。家の前の道路が綺麗に舗装されたり、トイレが水洗便所になったり、木製のりんご箱をゴミ箱にしていたが、これが青いプラスチックのバケツに変わった。

小学4年生になると兄へのライバル心が芽生えたのか、とにかく兄のやってることがしたくて彼がそろばん学校へ通っていたので、私も一年遅れで参加する。

自宅から歩いて5分ほどにその塾はあり、看板も出ていないしまるっきり大阪の普通の家だった。畳の部屋に二間に机が並んでいて、そこに20人位の子供たちがパチパチとそろばんを弾いていた。子供たち正座をして真剣にやっているのを見てちょっと驚いた。

教えている先生はメガネをかけた吉本芸人を思わせる容貌の中年男性。この先生近所の生徒が多いせいか苗字で呼ぶのでなく、名前て○○ちゃんと呼ぶのであった。

ある日フミちゃんと言う女の子が呼ばれた。そうすると悪ガキが「ババフミちゃん」と言うとみんな大笑いとなる。大阪ではウンコのことババと言うのである。

このそろばん学校(塾)を辞めた理由は思い出せないが、兄も辞めたようなので先生側に何かあったと思う。

次に習字教室へ通う。きっかけは自宅向かいに住む一歳上の男の子に誘われたからだ。ここは週一回で男のと一緒に通うので一年以上は通ったと思う。辞めた理由は今でもはっきり覚えている。

毎月習字教室協会から雑誌が発刊され、ここにそれぞれの級が掲載されるのだ。今月は1級上がったのだのこれも楽しみであった。ある月に私が向かいの男のを2級も抜いてしまった。

この向かいの母親が塾の先生に訴えたのだ。それから塾の先生の私に対する態度が変わってしまい遅くまで残らされた。これが嫌で辞めてしまった。もちろん向かいの男の子とお付き合いもこれで終了し、それ以降会っていない。

小学5年生の担任は「安倍先生」女性で元気な先生であった。クラスの雰囲気も良くてガソリンスタンドを経営していた佐藤君、ビー玉公園近くに住む伊藤君、女の子は、室内釣り堀屋の金子さん、自宅の裏筋に住んでいた岩田さん、親同士が知り合いの衣裴(エミ)さん。3人の女子共通点は、体が大きかった。この6人で学校行事や勉強グループでよく遊んだ。

悪童もいた。特に悪かったのが電気屋の松原君だ。ある朝早く学校へ行くと松原君が先に来ていて3階の窓から向かいの道路を見ていた。この道路は片側2車線で東住吉区から守口市まで貫く大きな幹線道路だった。

その時、二人の先生がバタバタと走ってくる音と同時に教室の扉が開くと「こら〜お前ら何をした〜!」と怒っていた。松原君は先生に連れて行かれてしまった。

原因は、3階の教室から下の道路へヤクルトのビン(当時はプラスチックではなく、厚めのガラス瓶)を投げたようだ。このビンが車に直撃し、学校へ怒鳴り込んだらしいい。メチャメチャなヤツだった。

中学校時代

中学は田島中学校。自宅から徒歩で20分位かかったと思う。校歌に「メガネ産業に・・」とあるように当時は、メガネのレンズを作っていたようだ。大きな樽にメガネのレンズを入れて、赤い泥のような液体で洗っている工場が多かった。また、ヘップサンダルの底を型抜きする工場なども多く、家内工業や町工場が多い地区だった。松下幸之助も生野区で町工場を始めたようだ。

中学で驚いたことは、小学時代になかった名札を付けることだった。特に不思議だったのは、小学時代のお友達だった金子さんの名札は「金子(金)」冨永君は「冨永(夫)」と日本名と朝鮮名が表記されていた。これで日本人と朝鮮人かハッキリしたが当時知識の薄い私には理解できなかった。

学校内で朝鮮人が虐められるとか、差別されるとは全くなく。差別は大人(日本人も朝鮮人も)が口にすることが多い感じていた。それにクラス40人中にこの名札を着けているが15人はいるので学校生活で違和感はなかった。

友達は、家が近い男前で人気があった冨永君。お金持ちでヘップサンダルの底を作っている町工場の次男。家に行くと大きなステレオが置いてあり、初めてビートルズのアルバムを聴いた。この冨永君とは東京へ出てくるまで永い付き合いとなった。